新月の光(かけ)
王仁三郎が信者等に語ったことを高弟の木庭次守が編纂したもの。
『三鏡』とは異なり、王仁三郎自身の校閲を経ていませんが、その玉言の多さには圧倒されます。
■歌集『愛善の道』
大本が昭和二十年二月八日から愛善苑の名称で、活動を開始したが、事件の際に、大本文献はほとんど、当局によって没収され焼却されてしまったために、大本活歴史と大本教理の勉強ができないので困惑していた。日本の国そのものも、敗戦と国土が爆撃されたために、用紙さえ入手されない有
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山越みろくに扮する王仁三郎 |
様で、印刷発行さえままならぬ状態であった。聖師にお願いすると「神書の出版の時期はまだ早い。読みたい人は写して読んだら良い」と申されていたが、聖師は昭和二十一年八月二十六日早朝発病されて静養されることになりました。
愛善苑としては、委員長出口伊佐男氏を中心に桜井重雄、土井靖都、出口貞四郎、出口新衛、木庭次守等が、『霊界物語』第六十巻、第六十一巻、第六十二巻、聖師の歌集十一巻の『花明山』、『東の光』、『彗星』、『白童子』、『霞の奥』、『公孫樹』、『山と海』、『故山の夢』、『霧の海』、『青嵐』、『浪の音』の五万余首の中から、五百二首を選び出して、聖師の御染筆の「愛善の道」を題名として出口王仁三郎著で、昭和二十二年五月三十一日印刷、同六月五日に発行、聖師に献上した。
聖師は大変に喜ばれて、右手掌に持っては、なつかしく、繰り返して読まれるので、本はボロボロになったほどである。静養中最も喜ばれたことは、天祥地瑞の物語の拝読と『愛善の道』を繰り返して読まれることであった。大本が愛善苑としての新発足してから最初の大本の教典となり、神前の礼拝の際祝詞奏上についで『愛善の道』を、大本の讃美歌として一同で斎唱することとなる。
■台湾
台湾はみろく様の姿だ。(昭和十年以前)
(日本列島は竜体である。竜体の頭は九州であり、尾は北海道であり、台湾は宝冠である。聖師は昭和三年八月北海道の芦別山より綾部の四尾山に国祖の神霊を奉迎される。)
■山田春三
皇后陛下をえらぶのに予定、内定、確定という制度になっていた。久迩宮良子女王の予定、内定、確定まで大本で御祈願申し上げた。養育係の山田春三という人は熱心な大本信者(大正八年五月十一日、聖師が自ら訪問された)で、お祝いの時には「私は貧しくて何もありませんからこれを読んで下さい」と言って、大本文献をさし上げていたから皇后陛下は小さい時から大本の本を読んでおいでになる。天皇陛下は○○○○○○○○○(御存知のはずである)。神様は十分知らせるだけ知らせていられるのである。王仁は東京に行ったら山田さんとこへ行っていた。反対派が色盲だと言っていたので、鶴殿さんが(賀陽宮大妃殿下の妹の)が王仁に聞きにみえたので「色盲ではない」と王仁が言ったから決定したのである。
(昭和十八年三月十三日)
■経済ブロック
皇道経済実現には、第一に自給自足の経済ブロック圏を創設することである。山陰ブロック、山陽ブロック、四国ブロック等々で、ブロック圏相互に有無相通ずることである。だんだん大きくして日本ブロック。それからアジアブロック、アメリカブロック、エウロッパブロック。アフリカブロック。オーストラリアブロック。北米ブロック。南米ブロックと大きい経済ブロックを創設して大きいブロック相互の有無相通によって、全地球の自給自足経済までに拡がって行くことが神の経済経綸である。
(昭和十八年)
■蒙古入り秘話
蒙古入りは山田さんの養育した田中義之大将との打合せで行ったのであるが、入蒙中、総理大臣が加藤高明と変わったので今度は王仁を討伐せよと命じたので、パインタラで銃を受け取るつもりで行ったら反対に捕縛されてしまった。大阪の若松刑務所へ入れられたので当時の司法大臣横田千之助へおこってやったら出してくれた。後でちっとも知らなんだといっていた。
蒙古は百六王国があるが、それは源義経がつれて行った者が全部王になったのである。源義経がジンギスカンになったのである。支那読みで、読めば、源 - ジン 義 - ギ 経 - スということで汗(カン)は王ということである。王仁も何かに書いておいたけれど、「入蒙記」の中かな。王仁はその直系の○○を元帥として王仁が大将でオロチョン民族、ソビエトやら呉佩孚(ゴハイフ)やらと戦った。百六の王の中、五十王くらい集まってきて十五万ほどの民兵を集めて戦争した。王仁はいつも裸で戦った。火縄銃もあれば、村田銃もある。大砲は木で造って縄で引っぱって戦争した。田中義一から銃を○○個もらう約束でパインタラへ行ったら、内閣が変わっていたのであんな目(パインタラの遭難)にあった。
(昭和十八年三月十三日)
■関東大震災と霊界物語
関東大震災の日(大正十二年九月一日午前)には熊本県山鹿町の、町経営の温泉の附属旅館の松風館にお着きになったので、鹿本支部、菊池支部、大八洲支部、八代支部の連合で歓迎しました。聖師のお話を聞くために集まったが宇知麿様に「『霊界物語』の大地震(第三十一巻第二章「大地震」、第三章「救世神」)のところを読め」と言いつけて、ご自身は休んでしまわれた。信者は宇知麿様の拝読される物語を心もとなく拝聴していたが、翌日九月二日、関東大震災の号外が出て、信者一同、聖師様の先見の明に今さらのごとく感嘆いたしました。(尾形太郎作氏拝聴)
休まれたのは霊的大活動のためである。
■御神書拝読の極意
結局神を愛したらよいのである。霊界物語にも人を殺したり物を盗んだり火をつけたくらいでは罰されぬ、ただ神に背いたものは罰されると書いてある。神を愛するとは碁や酒を好く者が愛するごとく、男女が愛し合うごとく、神様を思うことである。結局は御神書を読んでも赤子(うぶ)の心になることと神を愛することを忘れたら判らないのである。赤子は飛行機が来ても平気である。二階にいる者は物を取りに下るなと言うことがあるが、赤子には執着がないから欲が出ないのである。
神を愛することは若い男女が恋愛するごとく神を恋い慕うことである。親が家が釣り合わぬとか、血統が悪いとかいって引きはなそうとしても愛し合って離れない。また生木のごとく引きさいても、また引っついてしまうごとく神様を思うことである。これを主一無適の信仰というのである。
(昭和十八年十一月十八日午後八時)
■大山
大山(だいせん)は泰山(たいざん)で、支那からいえば五泰山の一つである。霊界物語に書いておいたように大地の要である。富士山より高い。海抜は低いけれど。
(昭和二十年二月十九日)
■高姫
(霊界物語の)高姫さんは沢山のモデルがある。
(昭和二十一年三月上旬)
■弁慶
弁慶は金買吉次。五条の橋の上のことは造りごとで、義経を平泉へつれて行ったのである。
■比婆山とピラミッド
(広島県庄原市)……あそこの本村のピラミッドには弥勒の世の因縁が秘められてある。弥勒の世になれば、ピラミッドに秘められている、鍵や因縁が明らかになる。比婆山は霊山である。
(昭和二十年、当時広島県の山奥の山内東村に在住の桑原英昭氏拝聴)
■九州は竜体の頭
九州は竜体の頭である。九州は熊本が開けぬと開けないからしつかりやつて呉れよ。(昭和七年 松浦教友氏拝聴)
■みろく最勝妙如来
大正十二年八月杖立温泉湯治を了えて九月二日関東大震災の翌朝、聖師様は熊本県鹿本郡三玉村蒲生(現在は山鹿市)の不動岩へ登山されることとなりました。先ず其下の小さな家に小憩されました。「聖師様小さい家で申し訳御座いません」と信者が申上げますと「王仁はこんな家が大好きじや」と言はれ、其家の中に祭ってありました観音様を見て「王仁が何時も観音様を書く時に見えてゐた観音様はこれだ」と喜んでふれられますと、前後に一尺も石像が動き出しまして暫くたって漸く止りますと坐って「王仁が触つたら喜んで動かれるので、倒れてはいかぬとつかむとますます動かれるので持つてゐた」と申されました。其瞬間に石像の胸に月の如き白き形が出来ました。「これは観音様ぢやない弥勒最勝妙如来」と示されました。ならんで写真を撮影されますと聖師様と全くの等身大でした。(聖師様は大正十四年六月三十日に弥勒神像のあたり一帯を瑞霊苑と命名されました。聖師様が此地に参拝されますと極って何処かで天災地変があります。関東大震災号外は此処で受取られました。昭和九年九月二十一日参拝されましたときは宝戸台風(死者・行方不明三○三六人)による大阪の風水害の折で九州別院から代理を派遣された時でありました。)(尾形太郎作氏、松浦教友氏拝聴)
■瑞霊苑と弥勒神像
大正十四年六月三十日に、聖師は熊本県鹿本郡三玉村蒲生にある聖師と等身大の弥勒神像の奉斎された聖域を瑞霊苑と命名された。沓島、冠島、神島と同様に祠官を置き、尾形太郎作氏を祠官に任命された。「神像は霊界物語第二巻に示された美山彦命の造りし神岩(土地で不動岩という)に向かいあう様に鎮祭せよ」と聖師の示されたままに大正十三年三月三日に鎮祭された。
■みろく神像と蒙古入と御手代
聖師様は聖地へ帰着されますと、「早くみろく神像を家の外に出さなければ活動が出来ない。そして雨ざらしておく様に」とのお便りがありましたので、当時山鹿町長でありました江藤寛治氏が熱心に村民を説きふせて、家の外に簡単な屋根をするとの条件で決定し、聖師へ其由をお伝えしました。手紙を受取った聖師様は大正十三年二月十三日午前三時綾部から突然入蒙された。神像を出しますのに裏壁を破って神像に疵が書かない様にと縄でぐるぐる巻いて外に出しました。六月二十一日パインタラにてガンジがらみにしばりあげられました聖師は自らが大本の神器として杖立温泉で染筆された御手代が日本領事館の手に入り奇蹟的に救出された。パインタラで逮捕された時に「大成功だ」と叫ばれた様に世界の王仁三郎と仰がれることとなる。世界の大池に投じた王仁三郎の一石は大反響を生む。
■瑞霊苑のみろく様へ煙草「朝日」を
聖師は蒙古から帰ると、大阪若松刑務支所へ九十八日間投獄された。面会に行った熊本県の信徒へ、「三玉村のみろく様が煙草朝日を持つて見舞ひに見えたから、みろく様へは朝日をお供えして呉れ」と申されたので、三玉のみろく様へは大正十三年以来、煙草「朝日」をお供えすることが例となった。此頃は、日本たばこ株式会社で、煙草朝日を製造しなくなったのでお供えが出来なくなって困っている。
■長崎
長崎は戦争の最後にひどい目に会ふ。(昭和十年長崎にて)
■人類愛善
人類愛善といふことは、各既成宗教及び今までの道徳教の総てを一つに纏めた、まあ云ふたら抱擁したのだ、肝腎のエキスをとつたやうな名である。仏教とかキリスト教とかは、米みたいなもので、米の中から出た酒の汁が愛と善なのだから。人類愛善の大風呂敷をかぶせると総てのことが解決する。(明治三十四年旧六月九日に冠島開きをされたが、大正十四年六月九日に人類愛善会を創立された)
■高千穂の峰は富士山
天孫降臨のつくしの日向の高千穂のくしふる峰とは富士山のことである。国常立尊の雄健びによつて天保山が陥没して今の日本海となつた時に出来たのである。(昭和十七年十月十二日)
■世界で経済を立替
今度は世界を経済で立替える。
■神力と原子爆弾
問 原爆が落ちましたら信仰者も駄目ですか。
答 それは駄目だ。神様が其時に霊化して又後で元(物質化)に戻して頂くのだ。(昭和二十年八月終戦後)
■いざと言ふ時
いざと言ふ時には神様に霊をかぶせて頂くから大丈夫。(昭和十年以前)
王仁三郎の還暦祝いに綾部町が贈った布張りの祝餅
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