月鏡
月鏡は王仁三郎が信者等に語ったことをまとめた如是我聞集(「私は王仁三郎からこのように聞いた」の意)です。昭和3〜5年の機関誌『神の国』で発表されていたものを収録しています。
男装坊の謎に迫る「十和田湖の神秘」は、王仁三郎自らが執筆しています。
なお、水鏡、月鏡、玉鏡の三部作を総称して「三鏡(さんかがみ)」といいます。
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信者らに町駕籠で運ばれる王仁三 郎(宮城県白石市 小原温泉にて) |
■日本は世界の胎胞(えな)
日本は世界の胎胞に当っておって、世界の地形は日本のそれと相似形をしているということは度々話したことである。すなわち日本は五大島からなり、世界は五大洲からなっており、その地形もそっくりそのままである。九州は阿弗利加(あふりか)に、四国は豪洲に、北海道は北米に、台湾は南米に、本洲は欧亜の大陸にそれぞれ相当している。紀伊の国はアラビヤに、琵琶湖は裏海(りかい)に、大阪湾は黒海に、伊勢の海はアラビヤ海に、駿河湾はベンガル湾に、津軽海峡はベーリング海峡に、土佐湾はオーストラリア大湾に、能登半島はスカンジナビヤの半島に、瀬戸内海は地中海に、関門海峡はジブラルタルの海峡に相当する。これらはほんの一部分を示したに過ぎないが地名を言霊学(げんれいがく)で調べて見ると、小さな町や村に至るまでみな同じである。日本国内では鹿児島県の大島がまた日本の縮図であつて、総てが相似形をしている。またそれらの土地に起こる種々の出来事も、相応の形をとって起こるのである。単に土地のみでは無い。人の体もまた相応しているので、五臓六腑は五大洲に同じような形をしているのである。
あのネーブルという果物がある。エボの所に大きな臍があってむいて見ると同じやうな形をしている、あたかも小日本が大日本(世界全体)と相似形をしているのと同様である。不思議なことには、このネーブルは、日本に移植されるといつの間にか臍が無くなってしまう。心なきネーブルさへも、日本が世界の親国であるということを知っていて、日本へ帰ると日本、外国の区別は要らぬとばかりに、臍をなくして世界統一の形を示す。神紋はネーブルを横に切った切り口の形だと私は神様から聞いている。日本という国は不思議な尊い国である。
前述、相似の形における世界と日本は今少し詳しく示されておりますが、段々と詳細に示して頂けることと存じますから、後日再び記させていただきます。
■学と神力の力競べ
一時間に、絵短冊の千枚も私が描くのを人は信じまいが、お前たち明光社の人々、毎日のように実地を見聞しているものには疑いは無いだろう。
四百頁(四六判)近い霊界物語を二日ないし三日に口述するのも、習ったことのない絵が書けるのも、楽焼が出来るのも、みな神様が私を使って、学力と神力との力競べをしておられるのである。大本神諭に、「神が表に現れて、神力と学との力競べをいたすぞよ、学の世はもう済みたぞよ、神には勝てんぞよ」とあるを証せんがためである。
■霊止と人間
人は霊止(ひと)であって、天地経綸(けいりん)の司宰者(しさいしゃ)であるが、人間は天地の経綸を行うことは出来ない、人間は天地経綸の一機関である。
■空相と実相
龍樹菩薩は空を説いた。空というのは神または霊ということである。目に見えず、耳に聞えぬ世界であるから空というのである。空相は実相を生む、霊より物質が生れて来ることを意味する。無より有を生ずるというのも同じ意味で、神が総ての根元でありそれより森羅万象を生ずるのである。霊が先であり体が後である。家を建てようと思う思いは外的に見て空である。けれどもその思いの中には、ちゃんと立派な建造物が出来上っているのである、それがやがて設計図となって具体化する。さらに木材の蒐集となり組立となり、ついに実際の大廈高楼(たいかこうろう)が現出する。空相が実相を生み、無より有が生じたのである。
真如実相という意を聞くのか、真如は神、仏、絶対無限の力をいうのであるから、前と同じ意味である。実相は物質的意味である。
■蟇目(ひきめ)の法
綾部、亀岡両聖地の建造物はみな蟇目(ひきめ)の法によって天柱に繋いであるのである。であるから地震が揺れば自然と地上を離れて浮き上がり、風が吹けば地上に固定して動揺せぬ。かくて安全に保たれて行くのである。ミロク殿などは大きいから随分繋ぐのに困難であった。今度天恩郷に建てた智照館(写真館)は撮影上、どうのこうのと人間的の条件が多くて、私の命令通りにしてないから繋ぐのに非常に困難を感ずる。家の方向、位置など、みなこの天柱に繋ぐ便宜を考えて私が指揮命令するのだから、その通りにしてくれねばならぬ。人間はこういう神秘な事実を知らないでいて、かれこれと申分が多いが困ったものである。この蟇目の法を修するには、深夜人のいないときでなければならないので、繋いでいる最中にもし人が通ると、それがために法が破れてしまうのである。だから私は深夜人の静まって後、この法を修するのであるから誰も知っているものはない。また私が日本国中を隅から隅まで旅行するのは、一つはこの国土を天柱に繋ぐためである。お前達はそばについていても知ってはいまい。綾部には天の御柱が立ち、天恩郷には国の御柱が立っているのである。それで綾部の本宮山を鶴山といい、天恩郷を亀山というのであって、鶴は天のもの、亀は地のものである。
昭和四年九月二日、筆者(註 加藤明子)は小恙(しょうよう)ありて早く寝床に入っておりました。夜も十時とおぼしき頃、表で聖師様のお声がしましたので、急ぎ起き出でて戸を繰ってご挨拶のため外に出ようといたしました。すると厳なるお声で「出てはいけない」と仰せになりまして、大祥花壇の西北の隅、祥明館のすぐ前で棟を上げたばかりの智照館を睨んでキッと立っておられました。そしてそのそばを通る人々に「そこへ来るな」と大きな声で命令されておりましたが、通っている人は何のことか分からず、ドギマギして、かえって反対に聖師様と智照館との間をうろつきましたので、「そちらへ、そちらへ」と叱咤しておられました。しばらくしてまた月照山の西側に立って、南からジット智照館を睨んで立っておられました。かくのごときこと約二十分間、やがて祥明館で少憩せられ「人が通って蟇目の法が汚され、破れてしまった、やはり深夜でなくては駄目だ、やり直しだ」と仰せられて上記のお話がありました。せられたことは分りませんが、蟇目の実地を目撃させていただきましたので、ここに附記さしていただきます。
■霊媒
霊媒などになる人を、身魂が磨けているから霊覚がある、などと思うている人がだいぶんあるようであるが、決してそうではない、意志が弱いから、霊に左右せらるるのである。霊のほうでは使いやすいから使うので、こうした人間には大した仕事は出来ない、しっかりしていて、しかも霊覚があるというような偉人は、めったに出るものではない。大抵意志薄弱で、一生涯憑霊に支配されて、真の自我というものの確立がない、情ない状態で終ってしまうのである。霊媒になるような人は、ちょっと人がよいようで、そうしてどこかにぬけた所がある。しまいには悪いことを仕出かしがちである。命も短いものである。
■心霊現象と兇党界(きょうとうかい)
心霊現象として現れる諸現象のうち、その物理的のものは全然兇党界に属する霊の働きである。日本における兇党界の大将は、筑波山の山本五郎衛門(さんもとごろうえもん)で、世界的の大将は大黒主(おおくろぬし)である。兇党界と交渉をもつような仕事をしていると、ついに兇党界におちてしまうようになるから用心せねばならぬ。他の霊的現象もみな媒介の守護霊の仕事である。
兇党界に属する霊は、足部または背部などより肉体に這入り込み、善霊は眉間より入るのである。
本能の中心は臍下丹田にある、昔は腹があるとか、腹が大きいとかいうて人をほめていたものだが、だんだんと胸が確かだというようになり、今は頭がよい人というようになってしまった。
■大黒主と八岐大蛇
大黒主は月の国の都ハルナを三五教(あなないきょう)の宣伝使のために追われ、再び日本に逃げ来たり、夜見が浜なる境港より上陸し、大山(だいせん)にひそんだのである。素盞嗚命はこれを追跡して安来港に上陸したまい、いわゆる大蛇退治を遊ばされたのであるが、大黒主は大山において八岐大蛇の正体を現したのである。後世大蛇のことを池の主とか、山の主とか呼んで主の字をつけるのは、《大黒》主の主より来たるものである。
■偉人千家尊愛(せんけたかちか)
私が生まれてこのかた、この人はと尊敬の念をもって接した人は前後たった一人しか無い。千家尊愛その人である。もはや故人となったが大きな器であった。
■身魂の因縁
私は女が断りなしに背後に廻ると、ブルブルと震えて来る。たとえそれが小さな小供であっても同様だ、私の霊はかつて武将としてこの世に生まれ出ていたことがある。元来あの本能寺の変の時、信長は自殺して果てたと歴史には記されているが、実際はそうではなく、ああした不時の戦いであったため防禦の方法もつかず、万一雑兵の手にでもかかって死ぬようなことがあったならばそれこそ一代の名折れであるというとっさの考えから、阿野(あの)の局(つぼね)が後ろから薙刀でものをも言わず殺(あや)めたのである。その時の記憶が甦って来るのであろう、女が後ろに来ると反射的にブルブルとする。秀吉の身魂では無いかというのか、そう秀吉であり、同時に家康であり、三つの御魂の活動をしていたのである、と神様に聞かされている。
■義経と蒙古
蒙古とは古の高麗の国のことである。百済の国というのは今の満州で、新羅、任那の両国を合したものが今の朝鮮の地である。これを三韓というたので、今の朝鮮を三韓だと思うのは間違いである。玄海灘には、散島があって、それを辿りつつ小さな船で日本から渡ったものである。義経はこの道をとらないで北海道から渡ったのであるが、蒙古では成吉斯汗(じんぎすかん)と名乗って皇帝の位についた。蒙古には百六王があって汗(かん)というのが皇帝に相当するのである。蒙古にはまた面白い予言があって、成吉斯汗起兵後六百六十六年にして蒙古救済の聖雄が現れる、その時は黒鉄の蛇が世界を取り巻き、馬や牛がものをいい、下駄の下を通る人間が出来るというのである。まさに現代であって黒鉄の蛇というのは鉄道が世界を一周するということ、牛馬がものをいうとは神諭の「今の人間みな四つ足の容器になりておるぞよ」というのに相当し、下駄の下を通る人というのは小人物を指すのである。また成吉斯汗の子孫母につれられて日本に渡り、五十四才の時蒙古に帰り来って滅び行かんとする故国を救うという予言もある。私の入蒙はちょうどその年すなわち五十四才にあたり、また成吉斯汗起兵後六百六十六年目に当っているのである。かるが故に蒙古人は私を成吉斯汗すなわち義経の再来だと信じきったのである。義経はアフガニスタン、ベルジスタンにも行き、ついに甘粛にて死んだ。元の忽必烈(ふびらい)はその子孫である。元というのは源(げん)の字音から来るのである。
■素尊御陵
岡山県和気郡熊山の山頂にある戒壇は、神素盞嗚大神様の御陵である。古昔(こせき)出雲の国と称せられたる地点は、近江の琵琶湖以西の総称であって、素盞嗚大神様のうしはぎ給うた土地である。湖の以東は天照大神様の御領分であつた。この故に誓約はその中央にある天の真奈井すなわち琵琶湖で行われたのである。出雲の国というのは、いづくもの国の意にて、決して現今の島根県に限られたわけではないのである。素盞嗚大神様は八頭八尾の大蛇を御退治なされて後、櫛稲田姫と寿賀の宮に住まれた。尊百年の後出雲の国のうち、最上清浄の地を選び、御尊骸を納め奉った。これ備前国和気の熊山である。大蛇を断られた十握の剣も同所に納まっているのである。かの日本書紀にある「素盞嗚尊の蛇を断りたまえる剣は今吉備の神部の許(ところ)にあり、云々」とあるが熊山のことである。この戒壇と称うる石壇は、考古学者も何とも鑑定がつかぬと言うているそうであるが、そのはずである。
ちなみに熊山の麓なる伊部町は伊部焼の産地であるが、大蛇退治に使用されたる酒甕はすなわちこの地で焼かれたものである。伊部は忌部の義であり、また斎部の意である。
筆者(註 加藤明子)申す、昭和五年五月二十日旧歴四月二十二日聖師様は熊山に御登山になり御陵に奠(てん)せられましたので、筆者も随行いたしました、当時の記事をご参考のため掲載させていただききます。
■熊山にお伴して
加藤明子
「私もいずれ行く」とのお言葉が事実となって、昭和五年五月十七日の午後、私は聖師様随員北村隆光氏より左の招電を受け取りました。
セイシサマ一九ヒゴ五ジヲカヤマニオタチヨリスグコイ、
発信局は福岡、さてはいよいよ問題の熊山御登山と気も勇み立ち、いそいそ岡山へと志す。
十九日は払暁(ふつぎょう)より空いと曇りて天日を見ず、お着きの五時細雨(さいう)頻(しき)りに臻(いた)つて暗い天候であった。着岡された聖師様はステーションにて新聞記者の問いに答えて
「晴天であったら登山するし、天候が今日の如く悪ければ止めて亀岡へ直行するつもりです」
と申されていた。そしてまた小さな声で「熊山登山はまだ一年ばかり早い」と呟(つぶや)いておられたので、側聞(そくぶん)してこの度はあるいは駄目になるかも知れないと、晴れぬ思いで一夜を過ごした。おいおい集まる人々の中には遠く東京よりわざわざ馳(は)せ参じた人もあった。
県下の新聞は申すまでもなく、大朝(だいちょう)大毎(だいまい)二大新聞が前々よりかなり書き立て、また新調の駕籠、揃いの法被がこれもかなり長い間待ち詫びているので、どうか晴天にしたいものと願った。
「駄目でしょうか」
「この有様ではね」
浮かぬ顔をして皆がこう語り合っている。
雨は益々降りしきる。そもそもこのたび九州へ御旅立のみぎり、帰途は必ず熊山へ登るのだと申されていたのを、急に変更され「かかる重大なる神事を他の帰りがけのついでに遂行するのはよくないことである。帰って出直していく」と申し出されたのであった、だが──私は心ひそかにこの度の御登山を神剣御発動の神事、…………
バイブルのいわゆる「大なるミカエル立ち上がれり」に相当する重大事と考えていたので、九州お出ましは当然なくてはならぬ、天津祝詞中の「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原に御穢祓い給う」という祓戸行事にかなわせんがためであって、きっと御登山になるに違いないと独り決めにしていた。北村随行に会って聞いて見ると「岡山お立ち寄りのことは全然予定されていなかった、福岡で突如として命が下ったので驚いた」とのこと、しかし神界では既定のプログラムであったに相違あるまい。
岡山に着いて見ると、熊本県小国支部の高野円太氏が、ヒョックリ顔を出し「聖師様がついて来なはれ」とおっしゃったので随行して来ましたという。これも恐らく祓戸の神様を御同行になった型であろう、背の高い高野さんの後からついて行くと、何だか大幣が歩いているような気がしておかしかった。北村氏の話によれば、二十日間の御旅行中、短冊一枚も書かれなかった、未曽有のことであると。さもありなん、祓戸行事の真最中であったから従って今日の雨も土地に対する御禊に相違ないと高をくくって寝につく。
明くれば二十日。午前三時より四時にわたって篠つくばかりの大雨、五時頃より雨は上がりたれども、暗雲低迷して晴間も見えない。御出発は八時十五分というに……と皆が顔を見合わせて、心もとなさを交換しているのみである。しかるに御起床の頃より一天にわかに晴れ初めて、またたくうちに全くの好天気になってしまった。一同勇み立ってお伴する。
九時三十分万富(まんとみ)駅着、片尾邸に御少憩の後、十時半というに出発、五十町の道を突破して先頭は早くも十一時半頂上に着き、社務所に少憩、一同待ち合わして零時半いよいよ祭典の式が初まる。
ああこの光景、またとない偉大なる神事が今まさに行われんとしているのである。古今東西、世界の人類がそもそも何十万年待ち焦がれたことの実現であろう。私は身体中を耳にして聖師様のおあげなさる御祭文を拝聴しようとあせった。
「これの戒壇に永久に鎮まり給う掛けまくも綾に畏き主の大御神の珍の大前に謹み敬い畏み畏みも申さく」と、玲瓏玉を転ばす如き御声が聞こえて来た。私は心臓の血が音を立てて高鳴るのを明らかに意識した。少し声をおとされて何かまた奏上されたようであったが聞き取れなかった。
悲しいかな霊覚のない私には、このときにいかに荘厳なる光景が眼前に展開したのか、少しも知る由がない。ただ私の想像力は、そこに神代のままの御英姿をもって、素盞嗚の大神様がすっくと立ち上がられ剣を按じて微笑したまう光景を造り上げてしまったのである。
やがて大本祝詞を奏上せらるるに相(あい)和(わ)して、九天にも通ぜよとばかり奏する祝詞の声は天地を震撼していと勇ましく響き渡った。
五月の空くまなく晴れて蒸せかえるやうな青葉若葉の匂い、伽陵頻迦(がりょうびんが)の声しきりに聞こえてこの世ながらの天国のさま。ボッと上気して汗ばみたまう師の御前に手拭を捧げて「お目出度うございます」と申し上げると「ええ」と答えてしきりに汗をぬぐうておられる。卯月八日のお釈迦様というお姿。
お供への小餅を一々別けて下さって式は終わった。午後一時行廚(こうちゅう)を食し、熊山神社に参拝、亀石、新池などを見られ終わって熊山神社および四五の戒壇を巡拝され、四時半再び片尾邸に入られ少憩の後、別院の敷地たるべき向山を検分され、七時二十四分発にて岡山に引き返し一泊せられた。
道々承ったことどもを左に……
あの戒壇というのは日本五戒壇の一つというのであるが、約千年ぐらいを経過しているであろう、尊い聖跡の上に建てたものである。経の森と今一つの崩れたる大戒壇とは共にその下に素尊(すそん)の御髪(おぐし)等を埋(うづ)めてあるのである。櫛稲田姫の陵も同じく三つに別れていて、小さな戒壇というのがそれである。戒壇のかくのごとく崩壊しているというのは、仏法の戒律が無惨に破れてしまっていることを象徴している。熊山は実に霊地である。名が高熊山(たかくまやま)に似通っているし、この山はここら辺りの群山(ぐんざん)を圧して高いからその意味における高熊山である。全山三つ葉躑躅(つつじ)が生い茂っているのも面白い。四国の屋島、五剣山なども指呼(しこ)の間にあり、伯耆の大山(だいせん)も見えるというではないか、ここは将来修行場にするとよいと思う。私は駕龍(かご)であったから楽なはずであるが、急坂を舁(か)つぎ上げられたのだからかなり《えら》かった。諸子(みんな)は徒歩だから一層えらかったであらう、今日、駕籠(かご)をかいでくれた人たちが着ていたあの法被、あれがよい、ああいう姿で登山して戒壇を巡拝して歩くとかなりの行が出来る、崩れた戒壇は積み直さねばなるまい、亀石は別にたいしたものでも無い、新池(しんいけ)には白龍(はくりゅう)が住んでいて、赤と青との綺麗な玉をもっている、青の方は翡翠のごとく、赤の方は紅玉のような色をしている。
弘法大師が熊山に霊場を置こうとしたのをやめて高野山にしたというが、それはその地形が蓮華台をしていないからである。向山(むかふやま)の方は蓮華台をしてその地が綾部によく似よっている云々
まだ他にも承ったことがありますけれど、それは実際が物語ってくれると存じます。
ともかくも、ついに昭和五年五月二十日、旧歴四月二十二日という日をもって、神素盞嗚尊の永久に鎮まり給いし御陵の前に立たれたのである。復活!! 神剣の発動!! こういう叫声(きょうせい)が胸底から湧出して来る。日本も世界も大本もいよいよ多事(たじ)となって来さうな気がしてならぬ。近頃のお歌日記の中から
そろそろと世の大峠見え初(そ)めて
立ち騒ぐなりしこのたぶれが
と言うのを見出して私の想像もまんざら根底がないものでもないと思うようになりました。
学術上この戒壇は日本五戒壇の一つと称せられ、大和の唐招提寺、比叡山、下野の薬師寺、九州の観音寺と共に天下に有名なものださうで、ただその大きさにおいて他の四つに比して比較にならぬほど大きなもので、戒壇としても普通のものでなく、大乗戒壇であらうと考えらるるんぼであるが、沼田頼輔氏や上田三平博士らも何とも見当がつかなかったといふことである。
さもあらばあれ、この度の御登山によって総てが判明したのは結構なことでありました。向山は本宮山というよりもむしろ神島にそっくりの形をしていて、吉野川がその麓を流れている有様は確かに本宮山に似ています。「今までにたいした因縁の地ではないが、汚されていないからよい」とのことでした。そしてまた「神様の御気勘(ごきかん)に叶ったと見えて、今日の登山を無事に了することが出来た、もしさうでなかったらこの好天気にはならなかったであらう」とつけ加へられました。このお言葉から推して御神業は一年あまり進展したと考えてさしつかえあるまいと思います。この秋頃よりはエンヤラ巻いたの掛け声が熊山にも向山にも盛んに起こることでしょうし、また私たちも大急行で身魂研きにかからねばならないような気が致します。
■再び素尊御陵について
熊山において再び数個の戒壇を発見したと言うのか、そうであらう、そうでなければならぬはずである。全体素盞嗚尊様の御陵は、三つの御霊にちなんで三個なければならぬので、前発見のものを中心として恐らく三角形をなしているであらうと思う。他の二つには御髪、御爪などが納められているのである。独り素盞嗚尊様に限らず、高貴なる地位にある人々は、毛髪等の一部を葬って、そこに墓を築き、ありし世を偲ぶの便宜(よすが)としたもので、人物が偉ければ偉いほどその墓は沢山あるものである。遺髪、爪などを得ることが出来ない場合は、その人の所持品例へば朝夕使った湯呑とか硯とか、そういうものまでも墓として祀り崇敬の誠を致したものである。なおそうしたものも得られない場合は、その人のおった屋敷の土を取って来て、かつては故人が足跡を印した懐しい思ひ出として、これを納めその上に墓を立てて祭ったのである。現代でも富豪などでは自分の菩提寺に墓を持ち、また高野山に骨肉の一部を納めたる墓を持つていると同様である。天照大神様の御陵などと称するものが方々から現れて来るのはこういう理由である。
櫛稲田姫御陵もそこにあるのであるが、詳しいことは行って見ねば判らぬ。
■探湯(くがたち)の釜
霊界物語第三巻に、探湯の神事ということを示されてあるが、そうした場合のその探湯の神事に使用せられたのが、この釜である。とて岡山県和気郡熊山の山頂、戒壇前の社務所にあった半ばこわれた古鉄釜を示された。この釜は一名地獄極楽の釜といい、また鳴動釜ともいうのである。神の審判によって、黒白を定むる器であるから、かかる名があるのである。珍しいもので天下の宝物である。大切に保存せなくてはならぬ。岡山県の吉備神社には、有名な、釜の鳴動によって吉凶を判ずるという神事があるが、あながち吉備神社のお釜のみ限ったことはない。ある仕方によれば鳴るようになっているので、これは科学的に説明がつくのである。この釜もまたそういうことにも使われたものである。
私はかかる変わった何か分らぬものを見る時、その初めには何か分らないのだが、見ているうちに腹の中から霊感が湧いて来て分るのである、この釜も珍しいと見ているうちに、霊感に入ったので判明した。私はいつもこんな風になっていろんなことが判るのだ。
附記
霊界物語第三巻四六章には、真心彦命と、春子姫とが、情的関係の疑いを受け言いとくすべも無く、困っている所へ、稚桜姫が降臨せられ春子姫に神懸られて、左記の神示を給わったことが書かれております。
「宜しく探湯の神事を行い、その虚実を試みよ、神界にてはこの正邪と虚実とは判明せり、されど地上の諸神は疑惑の念深くして心魂濁りおれば容易に疑いを晴らすの道なし。故に探湯の神事を行い以て身の疑いを晴らすべし。正しきものは、神徳を与へてこれを保護すべければ、如何なる熱湯の中に手を投ずるとも少しの火傷をも為さざるべし。これに反して、汚れたる行為ありし時は、たちまちにして手に大火傷をなし、汝の手ただちに破れただれて大苦痛を覚ゆべし」と、すなわち二人は神示の通り衆目環視の前にて、その神示を行ったが、二人共何等の故障も起こらなかったので疑念が全く晴れて皆々その潔白を賞讃した。という意味のことが記されております。(この釜もそうしたことに使用されまた鳴動釜としても用いられたのだそうであります)
鳥取県日吉津村にある神別院を訪れる王仁三郎
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