水鏡

 最後の審判書

 六百六十六の獣

 兇党界

 千の利休は明智光秀

 本宮山は平重盛の居城

 霊と精霊

 人間は種々の前世をもつ

 お釈迦さんの頭

 天津祝詞と神言

 白血球と赤血球
 月鏡

 日本は世界の胎胞

 学と神力の力競べ

 霊止と人間

 空相と実相

 蟇目の法

 霊媒

 心霊現象と兇党界

 大黒主と八岐大蛇

 偉人千家尊愛

 身魂の因縁

 義経と蒙古

 素尊御陵

 熊山にお伴して

 再び素尊御陵について

 探湯の釜
 玉鏡

 神への恋愛

 太陽の黒点

 大宇宙

 月は母体

 神示の宇宙

 進化論

 兇党界と人間

 三段の型

 八岐大蛇

 素尊の御職掌

 素尊の神業

 日本武尊

 亀山城

 男装坊の再生

 児島高徳

 ハルナ

 「ム」大陸は黄泉島

 惟神霊幸倍坐世

 取違ひの信仰
 新月の光

 歌集『愛善の道』

 台湾

 山田春三

 経済ブロック

 蒙古入り秘話

 関東大震災と霊界物語

 御神書拝読の極意

 大山

 高姫

 弁慶

 比婆山とピラミッド

 九州は竜体の頭

 みろく最勝妙如来

 瑞霊苑と弥勒神像

 みろく神像と蒙古入

 瑞霊苑みろく様へ「朝日」

 長崎

 人類愛善

 高千穂の峰は富士山

 世界で経済を立替

 神力と原子爆弾

 いざと言ふ時






水鏡

水鏡は王仁三郎が信者等に語ったことをまとめた如是我聞集(「私は王仁三郎からこのように聞いた」の意)です。大正14年〜昭和3年の機関誌『神の国』で発表されていたものを収録しています。

なお、水鏡、月鏡、玉鏡の三部作を総称して「三鏡(さんかがみ)」といいます。


(右)秘伝の鎮魂の巻物を手に
する若い頃の王仁三郎   



■霊界物語は最後の審判書なり

 キリストは、最後の審判をなすために再臨すると言ったが、彼の最後の審判というのは、火洗礼を施すことの謂いである。彼は火洗礼を施さんとして、その偉業が中途にして挫折したため、再び来たって火の洗礼を、完成せんと欲したのである。
 火洗礼とは、人間を霊的に救済することであるということは、すでにわが弟子たちの周知のことである。最後の審判は、閻魔大王が罪人を審くと同様なる形式において行わるると、考えている人が多いようだが、それは違う。天国に入り得るものと、地獄に陥落するものとの《標準》を、示されることである。この標準を示されて後、各自はその自由意志によって、自ら選んで天国に入り、あるいは自ら進んで地獄におつる、そは各自の意志想念の如何によるものである。
 《標準》とは何か、霊界物語によって示されつつある《神示》そのものである。ゆえに最後の審判は、大正十年十月より、すでに開かれているのである。バイブルに『また天国の、この福音を万民に、証せんために、普く天下に宣べ伝えられん。しかるのち末期(おわり)いたるべし』とある如く、大正十二年より、支那、朝鮮の順序を経て、今や全世界にこの福音が宣べ伝えられつつあるではないか、…………。



六百六十六の獣

 バイブルに六百六十六の獣という言葉があるが、それは三六(みろく)様に抵抗するということである。○○○○の如きがそれである。もしその通りになったらば宗教は滅びる。宗教が滅ぶれば反乱が起こる。六という字は神と人とが開くという字なので、すなわち、ヽはカミ、一はヒト、八は開くということである。



兇党界

 兇党界(きょうとうかい)は、肉体的精霊の団体であるから、人間から見て不思議と思ういろんなことをして見せる。例へば誰もいないのに机が自然に持ち上がったり、椅子が歩き出したり、空中から仏像が降って来たりする。こういう現象を見る人は、不可思議千万と思うであろうが、何も不思議はないので、みな肉体的精霊たる兇党界の仕業である。だから机などが持ち上がった時にその下の所を刀にて切れば、血を滴らして逃げて行く、無論姿は見えぬ。日本における兇党界の頭は山本五郎衛門というので。本拠は筑波山である。五郎衛門が最近人間としてこの世に姿を現したのは、今より百五六十年前であって、それが最後である。山本五郎衛門御宿と書いて門に張り出しておくと悪魔が来ないといわれておる。それは親分の宿であるから乾児の悪魔どもが遠慮して来ないのである。私もいろんな不思議なことをした時代がある。その火鉢をそっちに持って行けと命ずると、火鉢は独り動いて他に移る。お茶を注げと命ずると、土瓶が勝手に空中飛行をやって、お客の茶碗にお茶を注いで廻る。そんなことはごく容易(たやす)いもので、その外《いろんな》不思議なことをやったが、神様がそういうことばかりやっておると、兇党界に陥ってしまうぞとおっしゃって固く誡められたので、断然止めてしまった。



千の利休は明智光秀

 千の利休という人は、明智光秀の成れの果てである。明智光秀は山崎の一戦に脆くも敗れて、ついに名もなき一土兵のために竹槍にてつき殺されたと、歴史に伝えられてあるがあれは嘘である。天王山の一戦で勝敗の決することは、初めからよく承知しておったが光秀は将士の度々の迎えをうけながら、わざとグズグズしていて、ついに勝を秀吉に譲ったのである。実は疾くに光秀と秀吉との間には妥協が成立していたのである。聡明なる光秀は、たとえ如何なる事情があったにもせよ、いったん主殺の汚名を着たものが、天下の将軍となっても永続きがせぬということをよく承知していて秀吉に勝を譲ったのである。そして彼は頭を丸めてお茶坊主となり、萩の枝折戸四畳半の中にあって、天下の大事を論じ、謀を廻らして秀吉を太閤の地位まで押しのぼしてしまったのである。彼は実に秀吉の好参謀であったのである。朝鮮征伐なども、彼の献策に出たものである。茶室に這入るには丸腰となってにじり口より入らねばならぬ。元亀天正時代の荒武者を制御操縦するに、もって来いの場所方法であった。第一秘密を保つに絶好であった。のち彼は娘の美貌が禍の因をなして自殺を余儀なくせしめられたと、世に伝えられているが、全く跡形もないことである。英雄、英雄を知る諸般機微の消息は俗人には分らぬ。
 筆者(註 側近・加藤明子のこと)がこのお話を伺って、ある時のこと二三の方々にお話しておりました、たまたま座に岡山の太田栄子夫人がおられて、この話を裏書きする面白い物語をせられましたので、左に御紹介致します。
 太田夫人は、大正九年の頃、聖師様から「千の利休は明智光秀である」ということを承って、それを師匠(お茶の先生)の名倉某氏に話されたさうです。そうすると名倉氏はそれをまた家元(当時第十三代円能斎氏)に話されました、すると円能斎氏の顔色がサッと変わってしばらくは物もいわれなかったそうですが、太い吐息と共に口を突いて出た言葉は、「まあどうしてそれが分かったのですか」ということであったということです。そして、さらに語をついで、「そのことこそ、千家に伝わる、一子相伝の大秘密であって、後を嗣ぐ長男のみが知って、次から次へと言いつたへ語りつぎて、世に知るものが絶えて無いはずです。どうしてそれが分かったのでしょう」と聞くので、名倉氏は「霊覚によって分かったのです。丹波の国綾部町に、大神通力を供えた聖者がありましてその人の霊覚によって、その秘事が分かって来たのです」とて、聖師様に関するお話をせられました。円能斎氏はいたく驚きかつ感じ入り、ついに執事を派して綾部に参拝せしめ、ついで自らもまた参拝せられたそうですが、深くこのことを秘して人に語らなかった。名倉氏もまた秘してしまったのですが、不思議なことには三人が三人共、相前後して同じ心臓病のため倒れてしまったそうです。
 太田夫人は「これは秘してはならぬと思い、皆さんにお話しております」と語られました。一座のものはこれを聞いて、今更の如く驚き、聖師様の称え尽くせぬ御霊覚の程を感じ入りました。そして聖師様がもし、この霊覚によって訂正さるるならば、世界の歴史もずいぶん変わって来るかも知れないと思いました。



本宮山は平重盛の居城

 丸山(本宮山(ほんぐうやま))は平の重盛の居城であった。本宮(ほんぐう)、新宮(しんぐう)、熊野神社、那智の滝等みな紀州の地名と同じである。また舞鶴はもと田辺というていたのであるが、それも同じである。以仁王(もちひとわう)は重盛を頼って綾部の地に来られて、ついに薨去(こうきよ)されたのである。本宮山の中腹にある治總(はるふさ)神社は私が重盛の霊を祭ったものである。



霊と精霊

 霊と精霊とを混同して考えている人があるが、それは大変な間違いである。霊は万物に普遍しておるので、この火鉢にでも鉄瓶にでもないしは草花にでもある。もし霊が脱けてしまえば物はその形を保つことが出来ないで崩壊してしまう、非常に長い年数を経た土器なぞが、どうもしないのにくぢゃくぢゃに崩れてしまうのは霊がぬけてしまったからである。鉱物、植物みな霊のある間は、用をなすものである。精霊というのは動物の霊をさすのであって、すなわち生魂である。



人間は種々の前世をもつ

 人が死んでから再び人間に生まれ代わって来るのは、罪があるからである。生まれ代わるというても、人間から生まれ代わって来ているのもあり、犬や猫から生まれ代わっているものもあり、龍から生まれ代わっているものもある。



お釈迦さんの頭

 お釈迦様の頭の髪のぐるぐる巻いてあるのは、葡萄の形を取ったものである。キリストの荊の冠も実は葡萄である。葡萄は救いを意味するのである。



天津祝詞と神言

 天津祝詞は岩戸開きのおり、天之児屋根命が岩戸の前で奏上せられたのが嚆矢(こうし)である。神言は神武天皇の時代、天之登美命が作られたもので、児屋根命以来この時代まで全然なかったのである。天津祝詞も神言も共に神世言葉で出来ておって、それを今のような言葉や、文字に翻訳したのは聖武天皇の時代、常盤の大連がやったのである。



白血球と赤血球

 白血球は体の養を司るものであり、赤血球には霊が充満している。また霊の交通運輸の役目もする。赤血球百に対して、白血球一の割合が普通である。二千対一位になると体が弱い。





官憲によって取り壊される本宮山神殿(大正10年)