岡山県以外の歌碑を訪ねてみました。


神聖歌碑(国東歌碑)

大分県の国東(くにさき)半島に位置する歌碑。

歌碑から車で約15分ほど北東に行ったところに、熊野磨崖仏(まがいぶつ)があります。

また、歌碑から車で約30分ほど北西に行ったところに、全国の八幡宮の総本宮として知られる宇佐神宮もあります。

歌碑の多くが第二次大本事件の弾圧で破壊されましたが、この神聖歌碑だけはほとんど無傷のまま、田んぼの中に隠し埋められていました。そして


隠し埋められる前
の九州別院歌碑
戦後になって、篤信の信者さんの尽力と土地提供により現在地に再建され
ました。

神聖歌碑は、その発端から申請者不明のまま、王仁三郎から直々に下附があって建立されたという不思議な経緯があります。


神聖歌碑(国東歌碑)(昭和10年7月22日建立。昭和30年5月8日再建)
千早ふる神代ながらのまつり事(ごと)聖(きよ)く肇(はじ)むる春となりけり (表面)

国東(くにさき)の嶋根(しまね)によする荒浪(あらなみ)も凪(な)ぎ渡るらむ神聖の風に (裏面)


神聖歌碑(国東歌碑)(※画像をクリックすると拡大します)



神聖歌碑の表面(左)と裏面(右)
(※画像をクリックすると拡大します)


■関連サイト


九州別院歌碑

熊本県の九州別院に建立された歌碑。
第二次大本事件の弾圧のときは、歌碑前の池の中に隠し埋められていて、幸い破砕を免れました。
現在は大本熊本本苑内に再建されています。

九州別院歌碑の除幕式は昭和8年9月8日で、王仁三郎も臨席しました。
歌碑に揮毫されていた歌は次のとおりです。
言霊の誠を筑紫の志満可根(しまがね)に生かし照(てら)さ無(む)惟神(かむながら)吾波(われは)

九州別院歌碑(※画像をクリックすると拡大します)


当時の記録には
 歌碑は池辺に玄武岩を縦にたて並べて自然的風致(ふうち)よろしきが上に建てられてあり。式芽出席(めでたく)了(おわ)りて写真撮影あり、後池畔(ちはん)の人造天教山(てんきょうざん)に聖師様(王仁三郎のこと)御登りなされてお餅撒きあり。
とありますが、上記の「天教山」とは、九州別院歌碑の建立に際し、歌碑前の池を掘ったときの土を固めて築山としたものです。王仁三郎はこの築山を「天教山」と名付けています。以後、神体山として扱われているそうです。


築山の「天教山」(※画像をクリックすると拡大します)




御手代(みてしろ)歌碑

熊本県小国市の杖立温泉 "白糸の滝" にある歌碑。
王仁三郎の存命中にあった歌碑ではなく、「御手代(みてしろ)」発祥の地を記念して戦後に建てられたもの。

御手代とは、人々の身魂を救う神器のことです。
王仁三郎が杖立温泉の名物である竹のしゃもじに歌(歌碑と同文)を揮毫し、スの拇印を押して小国の信者に下げたものです。
しゃもじが米粒を掬(すく)うように、御手代はこぼれ落ちそうな身魂を救います。
御手代は、王仁三郎が蒙古で神業をしていたときに、王仁三郎自身をも救っています。


御手代歌碑(昭和34年5月31日建立)
萬有之身魂(ばんゆうのみたま)をすくう古(こ)の釈氏(しゃくし)心のまゝに世人(よびと)す九(く)へよ (表面)

この杓子(しゃくし)わが生まれ多(た)る十二夜の月のかたち尓(に)よくも似し可南(かな) (裏面)


杖立温泉 "白糸の滝" にある御手代歌碑
(※画像をクリックすると拡大します)


■関連サイト


国光歌碑、大道歌碑

どちらも福岡県行橋市で再建された歌碑。
現在は北九州市小倉の大本筑紫本苑に移転されています。


国光歌碑(左)と大道歌碑(右)
(※画像をクリックすると拡大します)


国光歌碑
浪(なみ)の奥雲の彼方(かなた)に浮びたる生紫満(いくしま)くまなく朝日は照らふ

国のため命(いのち)惜(おし)まぬ益良雄(ますらを)の生家(せいか)の山より出でにし常磐(ときは)

国光歌碑(※画像をクリックすると拡大します)

※ただし、再建された国光歌碑には、「国のため命惜まぬ益良雄の生家の山より出でにし常磐」の1首は刻まれていなかったように思います。


大道歌碑
千早ふる神の大道(おほぢ)を余所(よそ)にしてわが日本(ひのもと)の治まるべきやは

大道歌碑(※画像をクリックすると拡大します)

余談ですが、歌碑の周辺には、和気清麻呂と関わりが深い足立山や足立山妙見宮があります。
清麻呂は、企救郡(小倉南区)の温泉に入って足の傷を治したあと、足が立って山に登ることができました。以来、その山は「足立山」と呼ばれるようになったとか。
清麻呂によって創始され、清麻呂の4男によって奉祭された神社が足立山妙見宮だそうです。


■関連サイト


五六七歌碑

有田焼で有名な佐賀県の有田三六分院に建立された歌碑(3基)。
昭和9年9月27日、王仁三郎がこの分院を訪れたときに、歌碑の完成式が行われました。


五六七歌碑の完成式(※画像をクリックすると拡大します)

第二次大本事件の際、これらの歌碑は、官憲の命令により碑文こそ削られましたが、山奥に埋められていて破壊の難を免れました。
現在は旧有田三六分院内に再建されています。


再建された五六七歌碑(※画像をクリックすると拡大します)


五六七歌碑(昭和9年9月27日建立。昭和34年3月29日再建)
久かたの空にそびゆる富士ヶ峰を移して三六(みろく)の世を楽しまむ (右碑)

五六七歌碑(右碑)(※画像をクリックすると拡大します)

月も日も水面(みのも)にさゆる三六池(みろくいけ)の清きは神のこころなるかも (中央碑)

五六七歌碑(中央碑)(※画像をクリックすると拡大します)

興味深いことに、中央の歌碑は鏡を模したかのような形をしています。

瑞霊(ずいれい)のあとをとどむる永祥山(えいしょうざん)は三葉つつじにいろどられたり (左碑)

五六七歌碑(左碑)(※画像をクリックすると拡大します)


■関連サイト


三六(みろく)歌碑

長崎県の佐世保別院にあった歌碑。

佐世保別院のあった場所に行ってみましたが、住宅地に変わっていました。周囲には歌碑の跡らしきものもなく、残念ながら、現在に至っても再建されていないようです。

なお、三六歌碑には次の歌2首が詠まれていました。


三六歌碑(昭和9年9月26日建立)
神国(かみくに)のとはの命を抱(かか)へたる佐世保の港はかがよへるかも

万山(よろづよ)の月日を浮(うか)ぶる軍港の深きは日本(やまと)の要(かなめ)なるかな


佐世保別院の三六歌碑(中央)
なお、(左)神奈川県の関東別院歌碑、(右)京都府の八木歌碑




「せかいのへいわ」石碑

王仁三郎の来福を記念して旧福岡分苑跡に建立された石碑。



「せかいのへいわ」石碑
(※画像をクリックすると拡大します)



石碑の側面
(※画像をクリックすると拡大します)


石碑に
この地は瑞霊真如聖師出口王仁三郎の霊蹟地なり

と刻まれているとおり、王仁三郎は旧福岡分苑に幾度も泊まっています。また、壱岐・対馬の往き帰りなどの際にもよく利用したそうです。

石碑の詳細は下記をご参照ください。

石碑名せかいのへいわ
石碑建立年平成26年(午年)
石碑建立地福岡市中央区桜坂2丁目2-31
石碑本体五木石
(いつきいし。平家伝説の五木村産の石)
石碑土台寶満石
(ほうまんせき。福岡宝満山産出の石。宝満山は古来信仰の山で、山頂に竃門神社(主祭神 玉依姫命)があります)




山鹿のみろく岩

熊本県の山鹿市には「不動岩」と呼ばれる巨石群があります。
その中の最も大きな「前不動」は、「みろく岩」とも呼ばれています。


不動岩(正面)。「神面」に見えるのがみろく岩
(※画像をクリックすると拡大します)


みろく岩は、『霊界物語』第2巻の口絵に写真が載っています。
もとは山鹿の信者が持ってきていた不動岩の写真絵葉書でしたが、王仁三郎がこれを見て、

    「ああ、これだ、これが美山彦命(言霊別命)のロッキー山に立
    てられた石神像だ、私が神霊世界で見たのとチッとも違わん」

と言って、第2巻の口絵に採用したことによります。
(※この当時、王仁三郎はまだ不動岩を訪れていません)


みろく岩(下から見上げた眺め)。「さざれ石の巌」となった
ものが不動岩とか。近くで見るとそのようにも感じられます
(※画像をクリックすると拡大します)


『霊界物語』第2巻 第3章「美山彦命の出現」には、こう書かれてあります。
ここに天使大八洲彦命、真澄姫のもつとも信頼せる神人に、美山彦命という智勇兼備の神将があつた。…(中略)… このゆゑは、真の美山彦命は神示によつて、東方に位する安泰山に第二の陣営をつくり、既に出陣してをつたからである。そして後には岩をもつてわが姿をつくり、また諸々の従臣の形をも岩にて作り、これをロツキー山の城塞に立ておいたのである。…(中略)… このとき早くも、ロツキー山は棒振彦の占領するところとなつてゐた。しかるに美山彦命以下の石像より常に火を発して、棒振彦の魔軍を滅茶々々になやませしかば、棒振彦はつひにロツキー山を捨てて、鬼城山の高虎姫の陣営に退却するの止むをえざるに立ちいたつた。…(後略)…
余談ですが、ロツキー山の「ロツキー」は、英語の「rocky」のことかと思われます。「rocky」は、物理的に「岩石(rock)の多い」「岩のような」、精神的に「不動の」「頑固な」等を意味します。「Rocky Mountains」と言えば、北米にある「ロッキー山脈」のこと。関係ないかもしれませんが、映画『ロッキー』の主人公もロッキー・バルボア(Rocky Balboa)です。


中不動に登ったときの眺望(前方にみろく岩の背面が見えます)
(※画像をクリックすると拡大します)


王仁三郎は、大正12年9月2日に不動岩を訪れています。その時の感想を、こう歌っています。

        予てより一度見まく欲りしたる
                この神岩に会ふぞ嬉しき

        白雲のとこ世の国にありと云ふ
                いづ岩神をこゝに見るかな

        魔軍を言むけやはし天の下
                豊かにあれと祈る神岩

        動きなき千代のかための不動岩
                昔の神のみたまこもれる

        美山彦神のみことの籠りたる
                山の姿に能くも似しかな

        古も今も変らぬ不動岩は
                言霊別の守りなりけり



不動岩のすぐ下にある金毘羅神社。信者の一人がこの神社に参籠し祈
願した結果、不動岩の七合目あたりから「みろく神像」が発見されました
(※画像をクリックすると拡大します)


■関連サイト


山鹿の瑞霊苑

王仁三郎は、大正14年に「みろく岩」と「みろく神像」を含めた辺り一帯を「瑞霊苑」と命名しました。


みろく神像(弥勒最勝妙如来)
(※画像をクリックすると拡大します)


室屋に安置されているみろく神像
(※画像をクリックすると拡大します)


みろく神像は、不動岩の麓の凡導寺に伝わる経筒をもとに、信者の一人が不動岩のすぐ下にある金毘羅神社に参籠し祈願した結果として、不動岩の七合目あたりから発見されたものです。


室屋のすぐ横にある凡導寺
(※画像をクリックすると拡大します)


このみろく神像(弥勒最勝妙如来)については、次のようなエピソードがあります。
『新月のかけ』(木庭次守編 日本タニハ文化研究所刊)

■みろく最勝妙如来

 大正十二年八月杖立温泉湯治を了えて九月二日関東大震災の翌朝、聖師様は熊本県鹿本郡三玉村蒲生(現在は山鹿市)の不動岩へ登山されることとなりました。先ず其下の小さな家に小憩されました。「聖師様小さい家で申し訳御座いません」と信者が申上げますと「王仁はこんな家が大好きじや」と言はれ、其家の中に祭ってありました観音様を見て「王仁が何時も観音様を書く時に見えてゐた観音様はこれだ」と喜んでふれられますと、前後に一尺も石像が動き出しまして暫くたって漸く止りますと坐って「王仁が触つたら喜んで動かれるので、倒れてはいかぬとつかむとますます動かれるので持つてゐた」と申されました。其瞬間に石像の胸に月の如き白き形が出来ました。「これは観音様ぢやない弥勒最勝妙如来」と示されました。ならんで写真を撮影されますと聖師様と全くの等身大でした。(聖師様は大正十四年六月三十日に弥勒神像のあたり一帯を瑞霊苑と命名されました。聖師様が此地に参拝されますと極って何処かで天災地変があります。関東大震災号外は此処で受取られました。昭和九年九月二十一日参拝されましたときは宝戸台風(死者・行方不明三○三六人)による大阪の風水害の折で九州別院から代理を派遣された時でありました。)(尾形太郎作氏、松浦教友氏拝聴)

上述のとおり、興味深いことに、この神像は王仁三郎と全くの等身大でした。


同一寸法のみろく神像と王仁三郎(像の冠を除いて計った場合)
(※画像をクリックすると拡大します)


当時の様子は、『神の国』誌(大正12年10月25号)に掲載された、河津雄氏の「西遊随行記」に、こう書かれてあります。
…(前略)… 観音堂に入られた瑞月氏(= 王仁三郎)は如何にも満足相な面持で、石像の観音さんに見惚れて居られたが、やがて立つて持参の五六七(みろく)の杖で観音さんの身長を計つて見られたのであつた。不思議や杖の長さと観音さんの立像とは全然同一寸法の五尺六寸七分であつた。像の冠を除いて更に計つて氏自身と丈較べをやつて見てニコニコして居られるのを見れば、これがまた五尺三寸で同一寸法なんだ。更に観音さんの左手に持てる蓮の実形のものには三十三の波を刻んであつたのは一段と興味ある事であつた。…(中略)… 氏は観音様へ挨拶を済まされたから、このお顔を洗つて呉れと言はれた。二三人が立つて糠袋で洗ひ初めたら氏自らも立つて背などの塵を紙で拭いたりせられた。そして自ら像と並んで写真を撮らるゝのであつた。像に掴まつて鎮魂の気をかけられると満身に霊が憑つたと見えて五尺六寸七分の大石像は盛んに動き出したのであつた。
    前述の事が了つて座に帰つてから「観音様は三十三相に身を変じて諸人を済度されたのであるが、後に最勝妙如来と出世されるといふ事が法華経に書いてある。最勝妙如来といふのはみろく(= 弥勒)さんのこつちやぜ」と説いて下さつた。…(後略)…

王仁三郎の教えでは、「五六七」は「みろく」(= みろく大神  ※救い主の別名)と読みますので、みろく神像が五尺六寸七分なのは、まさに不思議な一致です。

その他にも、みろく神像には次のようなエピソードがあります。前述の『新月のかけ』から引用します。

■瑞霊苑と弥勒神像

 大正十四年六月三十日に、聖師は熊本県鹿本郡三玉村蒲生にある聖師と等身大の弥勒神像の奉斎された聖域を瑞霊苑と命名された。沓島、冠島、神島と同様に祠官を置き、尾形太郎作氏を祠官に任命された。「神像は霊界物語第二巻に示された美山彦命の造りし神岩(土地で不動岩という)に向かいあう様に鎮祭せよ」と聖師の示されたままに大正十三年三月三日に鎮祭された。


■みろく神像と蒙古入と御手代

 聖師様は聖地へ帰着されますと、「早くみろく神像を家の外に出さなければ活動が出来ない。そして雨ざらしておく様に」とのお便りがありましたので、当時山鹿町長でありました江藤寛治氏が熱心に村民を説きふせて、家の外に簡単な屋根をするとの条件で決定し、聖師へ其由をお伝えしました。手紙を受取った聖師様は大正十三年二月十三日午前三時綾部から突然入蒙された。神像を出しますのに裏壁を破って神像に疵が書かない様にと縄でぐるぐる巻いて外に出しました。六月二十一日パインタラにてガンジがらみにしばりあげられました聖師は自らが大本の神器として杖立温泉で染筆された御手代が日本領事館の手に入り奇蹟的に救出された。パインタラで逮捕された時に「大成功だ」と叫ばれた様に世界の王仁三郎と仰がれることとなる。世界の大池に投じた王仁三郎の一石は大反響を生む。


■瑞霊苑のみろく様へ煙草「朝日」を

 聖師は蒙古から帰ると、大阪若松刑務支所へ九十八日間投獄された。面会に行った熊本県の信徒へ、「三玉村のみろく様が煙草朝日を持つて見舞ひに見えたから、みろく様へは朝日をお供えして呉れ」と申されたので、三玉のみろく様へは大正十三年以来、煙草「朝日」をお供えすることが例となった。此頃は、日本たばこ株式会社で、煙草朝日を製造しなくなったのでお供えが出来なくなって困っている。



島原の南風楼

王仁三郎は、長崎県の島原にある南風楼で霊界物語 第72巻特別篇「筑紫潟」を口述しました。

「筑紫潟(つくしがた)」では、瑞霊に反抗して帰幽した黒姫が、八衢(中有界)に踏み迷い苦しんでいるときに、突然現れたエンゼル(瑞霊)に救われる様子が描かれています。

以下はエンゼル登場の場面の歌です。
(前略)
『悪性男のハズバンド
黒姫愛想が盡きたぞや
鼻高姫の後を追つて
尻の世話でもするがよい
煩さい親爺』と言ひながら
悋気の角をふりたてて
夜叉のごとくに駆け出だす
かかるをりしも天空に
天津祝詞の聲聞こえ
梅の花片ちらちらと
四邊におちて香ばしく
いと爽かな音楽に
つれて紫雲をわけながら
氣高きエンゼル悠々と
下り来るよと見る中に
黒姫姿は後もなく
煙と消えて室内に
眼くばれば高姫が
黒姫霊璽の前に座し
片言交りの祝詞をば
奏上しながら涙ぐみ
ぶつぶつ小言を言ひゐたり
(後略)
「筑紫潟」口述当時の南風楼旧館は存在しませんが、南風楼自体は現在も「島原温泉 ホテル南風楼」として存続しています。

■関連サイト

現在のホテル南風楼




言霊歌碑

石川県小松市の北陸別院に建立された歌碑。
第二次大本事件により歌碑は破壊され、歌碑に揮毫されていた歌も削り消されました。
現在は大本北陸本苑内に再建されています。

言霊歌碑の建立日は昭和9年9月3日で、揮毫された歌は次の2首になります。

かむながらことあげなさず言霊の天照(あまて)りたすけ生くる神くに

山川をもろもろ越(こし)の国原(くにはら)に生ける日本(やまと)の教(のり)を説くなり


再建された言霊歌碑
(※画像をクリックすると拡大します)



破壊されていた本来の歌碑
分割線が石碑中央を真横に走り、文字が削り消されているのが見えます
(※画像をクリックすると拡大します)



2つの言霊歌碑が共存
向かって左側に再建後の歌碑、右側に本来の歌碑があります
(※画像をクリックすると拡大します)