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最近、有栖川宮熾仁親王直筆の短冊が発見されました。
有栖川宮熾仁親王の子を宿した上田よね(王仁三郎の生母)は、親王が東京へ旅立つ前に、親王から守刀、白い倫子の小袖、親王の御名と印と花押のある短冊を賜っています。
守刀は古い信者の家に秘蔵されており、昭和53年12月に発見され、毎日新聞で報道されました。両刃の短剣で刃渡り15.1cm、目釘の脇に直径1cmの十六花弁の菊の御紋が刻まれていたそうです。
白い倫子の小袖は、王仁三郎の妻・澄(すみ)が上田よねから実物を見せられています。ただし、現在は所在が不明です。
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有栖川宮熾仁親王 |
毎日新聞(昭和53年12月10日)の記事 画像左下の短剣は熾仁親王が上田よねに与えた守刀
熾仁親王の御名と印と花押のある短冊には、次のような歌が記されていたそうです。
わが恋は深山の奥の草なれや
茂さまされど知る人ぞなき
この短冊について出口和明氏はこうに述べています。
警察に押収されたと思っていたものが、昭和十七、八年頃、ひょっこり綾部の倉庫で発見されましてね、王仁三郎は大喜びでした。この短冊の歌を王仁三郎の五女の住之江(すみのえ)が覚えていて、「有栖川宮熾仁親王の御名と印と花押がちゃんとあった」と語っています。作歌に夢中になっていたおかげで、歌もそらんじていたんです。
その後、一時所在不明になりましたが、昭和四十八年には私が書斎として使っていた倉の天井裏に、熾仁親王の三幅の額が貼り付けてあるのを発見しました。 (『天皇の伝説』 「大本教教祖・出口王仁三郎「御落胤」伝説」 オルタブックス)
運命のいたずらでしょうか、この短冊は再び所在が不明になってしまいました。
それが2009年、再び発見され、日の目を見ることになりました。以下がその写真です。ご覧のとおり、歌がやや異なっていることが判明しました。
※画像をクリックすると拡大します。
短冊の裏側 「有栖河中務織仁親王筆」の文字とその上に「保野」 ※画像をクリックすると拡大します。
この短冊の裏側に書かれてある文字について、出口恒氏(出口王仁三郎の曾孫)は、著書『切紙神示と共に甦る孝明天皇の遺勅(予言) 誰も知らなかった日本史 皇室に隠された重大な真実』(ヒカルランド)の中でこう述べています。
しかし裏側には、似ても似つかぬ筆跡で「有栖川宮熾仁親王」ならぬ「有栖河中務織仁親王筆」と書かれている。これは世祢から渡された王仁三郎が、わざと下手な文字で書いたものではないだろうか。もし当局に押収されても言い逃れができるようにだ。「織仁(おりひと)親王」は実在したが熾仁親王の三代も前の人だし、「川」ではなく「河」と間違っていれば、親王の真筆だとは思われまい(「中務」は「中務卿(なかつかさきょう)」という宮中の役職のこと)。
その署名の上側には、薄い墨で文字が書いてある。「保野」と読める。「野に保て」ということだ。私はハッとした。つまり「宮中に連れて来るな。野(民間)にいろ」という意味にとれる。熾仁親王が生まれてくる子を案じて、世祢(よね)に指示したのではないだろうか。
なお、上田よねが妊娠に気づき郷里へ戻って吉松と結婚したこと、生まれた赤ん坊が上田喜三郎(後の出口王仁三郎)と名づけられたこと等の様子は、『大地の母』(第1巻「深山の草」)に詳しく書かれてあります。
精乳館を経営していたころの上田喜三郎
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